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【宇宙戦艦ヤマト 復活編】

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パイオニアはたいてい不遇である。それは、このシリーズも変わらない。何のパイオニアだったのか?

抽象的イメージをメディア戦略に使った(最初の放送のCMは惑星ミサイルの爆風で跳ね上がる地面だった)
・TVアニメーションに3次元的な動きを取り入れた
宇宙空間での戦闘シーン
人間ドラマをストーリーの骨格に据えた
アニメブームを産み出した
女性ファンを引き込み、キャラ萌えというファンの態度を作り出した
・アニメファン向きのキャラクター商品展開(主題歌の国民歌的なヒットを含む)
・アニメーションをまじめに語る、批評し、批判するという姿勢を生み出した(OUT誌)

等々であろう。これらのパラメーターに現在と違う変数を入れれば、いまの日本のアニメの状況がどれだけ変わってくるだろうか?
ヤマトとヤマト以降では、アニメーションという存在の可能性がまるっきり変わってしまったのは、多分明らかな事実であり、そのアニメーションが現在衰退期に向かっている(かも知れない)現在、まるで挽歌のように、あるいは新しいサイクルへの幕間曲のように、『宇宙のスキャット』が銀幕に流れるのは、まったく必然的な光景のように思える。
もちろん、シリーズどの作品も、さまざまな方向から非難・揶揄されてきたし、それらの批判は多分正しいのだが、しかし、それらの行為は一種の父殺しであり、ヤマトが無ければ、ガンダムもエヴァンゲリオンも宮崎アニメも無く、アニメのことを熱烈に語るオタクという人種もいなかったか、あるいはSFファンを中心とした全然別種の存在だったろうことは、声を大にして指摘しておきたい。
父とは、何もない荒野で道をつけ、何かを成し遂げた蛮人であり、ゆえにまがまがしい何かの力を持っていて、それを子らは非難するのだ。
個人的なことを言えば、『宇宙戦艦ヤマト』初放送は、当時小学生だった私にとっての故郷=原風景であり、ブラウン管の向こうに原風景を持ってしまうのは、映像メディア世代(オタク世代)のカインの印であるだろう。
そしてこのシリーズは、どうも作り手にとってもカインの印であるようだ。

で、26年ぶりの復活編なのだが、相変わらずの無茶ぶり、御都合主義、やたらレベルの高い戦闘シーン、SFとして良い絵、が混在し、やはりヤマトはヤマトであった、という印象。私は安心した。CGの絵がかなり多いが、そもそもアニメ製作法へのCGの取り込み自体、大いにヤマトを意識しての動きだったので、まぁ必然か。ややハイライトの入り方に不満はあるが、それは私のささやかなプライドゆえの偏見かも知れない。ほとんどのカットが、良い仕事だと思う。
スターウォーズと同様の淡々とした場面展開、総集編的な話の詰め込み過ぎ、右翼イデオロギーのメタファライズ(こんな言葉あるのか?)は気にならないでもなかったが、そんなものは以前もあったし、シリーズの本質的な部分ではない。SWでも、新トリロジーで展開された政治論があの作品のテーマだと思っている人はいないだろう(作者は別かも知れないが......)。
ヤマト作品としては充分に良かったし、感動もした。これは映画ではない、ヤマト映画なのだ。

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