2009年5月アーカイブ

メイキング・オブ・ピクサー

 探すのに苦労した。最初は新刊書、ビジネス書、企業コーナーを見て、それからコンピューター書のコーナーに回ったが、見つからなかった。紀伊國屋書店だったので、店内のコンピューターで検索をかけ、やっと手に入れた。普通に考えたら分からない場所だった......。しかし、確かに分類に困る本かも知れないな、これは。
 早川書房の本には(特に最近は)面白いものが散見されるのだが、本屋さんの通常の分類からすると微妙で、置き場所に困るらしく、早々に姿を消してしまうし、こちらとしても「面白そう」という印象だけ残して失念してしまうことも多いのだ。
 オリジナリティを持った者、独創性や創造性のある者は不遇である。この会社は希有な例外だ。......
 
 で、この本なのだが、CGとかに関心がある人は問答無用の必読書。もちろんピクサーの偉業(その裏の苦労)だけでも読む価値はあると思うのだが、......なにしろ、主役のピクサーに加え、ILM、ディズニー、ディズニーランドやジョブズ、アップルのそれぞれの都合が絡み合って進む現代の「大きな物語」なのだから、大概の人はどこかにフックが引っかかると思うが......、おなじみベジェさんはじめ、フォンさん、ブリンさん、グロウさん(これ人名だったのか!)、等々、あぁ、CGというのはこうやって出来てきたのだなぁと、私たちはひょっとしてその成果を享受しているだけかも知れないが、明確に現代社会のある側面と、それと自分たちの位置関係が見えてくる。

 ところで、この本が書店のどこに置いてあったのか、ということだが、これがなんと「外国文芸コーナー」(!)なのである、......なんでや?
(早川書房)

若後家さんMe

 個人的なことだが、最近の清志郎と栗本薫の相次ぐ他界は、自分にとっては、日本カルチャーのシンボルたちが次々と消えていってしまうような、虚無的終末的な風景に見える。彼らは、もちろんメディアの人たちだったのだが、同時に精神性というものも持っていて、それは数十年にわたる彼らの活動を観ていると、その「文化的行動」、「仕事」の中になんらかの「精神性」があるのが感じられるのだ。それぞれ最後には「自転車」とか「やおい」とかに帰着?したとしても、それは彼らの人生を貫く精神性の発露だったとすると、違和感なく納得できる。
 その後のタレントや文化人の場合、見えてくるのはビジネス性と広告性、プログラムによって動くロボット性ばかりで、本人の精神性は(いくら私でも無いとは多分言わないが)感じられないことが多い。色々やっているが、結局プロダクションが企画したんでしょ?、それを演じているだけでしょ? といいたくなるような。
 日常でテレビを観ない私だから、もちろん不勉強であると言えるのかも知れないが、演出や企画ではない、かつ単なるゴシップでもない、文化人、有名人の文化的活動があったら、教えて。

 ちょっと話は飛ぶが、ヨーロッパだかオーストリアだかの学校に通った帰国子女が日本の学生たちを見て、その「精神」の欠如にかなりの不信感を覚えたという話を最近聞いた。人間全体のバランスの中で「ファッション」に関わる部分が突出していて、その分「精神性」が陥没しているような印象を受けるという。
 スイスだかオーストリアだかの学生の場合、割と服装等は貧乏くさかったり気にかけなかったり、しかしその一人一人が一個の人間として何かを探求している感があり、一人一人の存在感がある、と。

 そうなんだよ、娘さん。日本の学生たちはファッション誌だの「空気」だのを自分のプロダクションにしていて、その「演出」によって生きている部分は確かに大きいんだ。
 彼ら自身が「プロダクションの言いなりのタレント」(by清志郎)で、だから彼らのアイドルは彼らの「先輩」でしかないんだね。
 昔は、タレントや文化人の中にも自分の「精神性」を持っていて、その「精神性」から活動や日常生活を行っていた山男のような人たちが何人かいたんだよ。それでもそんな人たちは次々と早々に天に召されてしまって、後はほんの少ししか残っていないんだ......。

          娘さん、よく聞けよ
          山男にゃ惚れるなよ
          山で吹かれりゃよぉぉ
          若後家さんだよ

栗本薫 56歳

ヤバイ...

多読術

 最近元気なセイゴオ先生の、インタビューから起こした本。テーマは読書論。

 インタビューであるせいか、先生、妙に調子よく、興奮気味の発言が続く。

 多読術とはいえ、速読術のたぐいとは違う。基本的にはもっと「深く」読むためのあれこれの方法論の陳列といった感じかも知れない。(「深く」という言葉は今では難語のひとつになってしまったが、各人にとって、今の自分の読み方に比べて深い、多くの意味をくみ取っている、ということで、何も学者を作ろうとしているわけではない(多分))

 基本的には、今まで機械的に読み飛ばしていた諸々に気づくためのテクニック書である。

 しかし、テクニックというのはなんでも、その行為自体を愛している者でないと多く語り得ないもので、語られているテクニックの間にどうにもならないぐらいの「読書愛」がしたたり落ちている......、というか、垂れ流し状態である。

 個々で触れられている方法のいくつかは、無意識に自分も同じ方法にたどり着いたものだったのは、ほんのすこし我が矜持を高めてくれた。

 新しく役に立ったのは、(ついに実行に向けて背中を押してくれたのは)、赤ペンで本に書き込みをしてしまうことだ。これは前から言われていて、実行することには関心はあったのだが、しかしブツとしての本にも愛着があったし、ものを大切にする性分(ビンボ症)ゆえ、できないでいたのだ。しかし「本はノートだ」と言い切られ、恐る恐る本を読む時に赤ペンを使い始めてみたが、これが良いのだ。簡単に意識が文章の世界に集中していくのである。......正直言うと、電車でやるのは少し恥ずかしいけどさ......。

センター・オブ・ジ・アース

 知らないで見たのだが、3D映画だったらしい。もちろん、ストーリー的なものはホニャララなのだが、こーゆー映画に文芸や哲学を求めてはいけない。トロッコのシーンや地底海岸のシーンで妙な広がり感があって感心した。長い下りをトロッコが疾走するその落下感は、例えばトロッコやジェットコースターで有名な色々な映画よりはるかに大きいのだ。で、感心していたのだが、実はこの映画は、本来3D映画(3D上映される映画......、紛らわしいです)として作られたものらしい。私はDVDで、普通のわが家のテレビで観たのだが、それでもなぜか3D映画的効果を発揮していた......。
 なぜかと考えてみたが、多分、その効果が最大限に発揮されるように、そもそも脚本も出来ているし、構図もタイミングも演出されている。それが、立体表示機能を持たない通常のブラウン管で観ても意図した効果を大きく発揮しているわけだ(!)
 いやいや、本当は多分、技術を通じて、3D映像を作りたい監督(もしくはプロデューサー)の執念が、画像に発現しているのだと思う。 この落下感はなかなか......

インフルエンザの......

新型インフルエンザが世間をパニックに陥れている。いや、インフルエンザの情報が、といった方が多分正しい。(4時頃)

というようなことを言っていたら、ほとんど共時性のような時間差で、次の主旨のニュースがあがってきた(5時頃)。
海外の学会で日本人だけが集団欠席だと。(リンク)
でしょう? あぁ、恥ずかしい......

ちょっと心配なのは、心配性のストレスって、多分免疫系にかなりの影響があるはずなんだが、こうもなんでもかんでも心配しまくっていると、それだけでウイルスに対する抵抗力が減って、罹病率の上昇に一役買ってしまうのではないかと言うことだ。色々心配させるのが商売の人がいて、心配を布教してくるのである。

ハムナプトラ3

 今さらなのだが、このシリーズ、CG的には独特なポジションにいて、それは何かというと、CGがほとんど他作品のお古なのである(!)。多分、第二作で出てきたスコーピオン・キングはオリジナル度が高かったかも知れないが、他は大体どこかで見たCGに手を加えたものだ、というのは、みんな気がついているよね? 多分。
 で、シナリオも他作品のいいとこを寄せ集めてまとめてみました、みたいな感じなので、一体どこにオリジナルがあるのかと心配になってしまう。
 心配になってしまうのだが、そこらへんのチープさ加減が主人公のキャラクターともマッチし、バランスが取れちゃって、バレバレなのに嫌な感じを与えない奇特なシリーズであり、そこらへんは第三作である本作もきちんと踏襲しているようだ。
 今回のCGは主にライラとエラゴンで、ただ製作会社が違うのでそこらへんデータのやり取りとかあるのか知らん? 他にハルクっぽいモーションも出てきたが、モーションバンクもありですか?
 実はこの作品を見たのは、敵方で出てくる龍が三ッ首で、ハリウッドCGのキングギドラがどんな動きをするのか見たかったのが一番の原因だったのだが、残念ながら日本のギドラが持つ「3つの首がバラバラな方向を勝手に攻撃する」イカレぶり加減は真似られていなかった模様。まぁ確かにCGをイカレさせるのは大変なのだ。整然とカッコいいのなら得意なのだが、......>CG

小沢代表辞任

 きっかけとなった西松建設献金事件では警察や検察が何かの意図性をもって動いているのはほとんど見え見えであるのだが、しかしそれはスパンの長い行動計画であるから、短期記憶のみで生きている私たちにはなかなか読み取れず、対抗できるのは昔ならメディアだったのだろうが、これもどうか......。「チャクチャクと準備をしている」(by清志郎)奴らに対して、対抗できるのは、いよいよもって自然の力ぐらいしか無いのかも知れない。あるいは、個人の力。これはドラマだな......。

木でできた海

 個人的マスターピースであるキャロルだが、確かにこれはちょっと毛色が変わった作品だ。クレインズ・ビュー三部作の最終作品であるが(本当に三部作なのか?〜出版社の陰謀?)、この三部作は最初(「蜂の巣にキス」)と本作が、かなり毛色が変わっているということになる。(代わりに「薪の結婚」が、キャロル以上にキャロルっぽいという、そういえば確かにこの三作を混ぜて平均化すれば普通のキャロルにもなりそうであり、その意味では確かに三部作なのかも知れない。)

 正直に言えば「......キス」は、キャロルの終焉すら感じたのだが(だってほとんど普通の小説だったのだもの......)、「......結婚」はキャロルを模すキャロルを感じたのだが(っぽ過ぎたのだもの)、本作によってキャロルパワーが全然衰えていない、どころかパワーアップしているのを目の当たりにした。「変な小説」のキャロルだが、その変な小説世界が普通になってしまったので、さらに「変」を持ってくるという神技だ。もちろん手を触れようもない中核は今までのキャロルである。

 これはなかなか出来ることではないし、これが出来るということがクリエイトの魂に恵まれているかいないかの分水嶺になるのではないかと思う。自分を越えてより自分であるという死と再生の道行である。

 つまり、クレインズ・ビュー三部作は、三作を通して、死と再生の物語、と私は改めて発見したのだった。

忌野清志郎 58歳

そりゃないだろう......。瞑目。


オフィシャルサイトに行ってみたが、訃報のに、5月のスケジュールup!とかやっている。ちゃんとビックリマークも付いているのだ。全くこの人らしい(しかし重くてそこまでしか行けない)。もちろんスタッフの仕業ではあるのだが。

不死の怪物

 何年か前に「幻の古典」という位置づけで出版された、ホラーの古典である。NETで調べてみると残念ながら在庫切れ状態らしい。内容と売れ行きのギャップを考えるとさらに幻度がアップしそうだ。

 何となく買っておいたのだが、読む機会がなく、そのまま失念、最近蔵書のリスト化を始めたのだが、部屋の片隅からとつぜん現れて驚かせてくれた。最近個人的な「必読書」が立て続けに出版されているので、あまり時間がないのだがなんとか読み切った。文体が古いので抵抗はあるが、なんとかそのバリヤーを突破すると、まぁいつものことであるが面白いのだった。

ネタは最初の数ページでばれてしまうが、これはこの展開がまさに古典としてハリウッド映画等でさんざん使い回されているから、何となく見当が付いてしまうのだ。しかし、それが分かってしまっても、なぜか一種の新鮮さを持っているのは、これがかなり「一次作品」に近いからなのではないかと思う。「一次作品」、「二次作品」というのは、世相が二次的であるからか、なぜか最近気になっているところなのだが、今回は深入りしないでおく......。

 それはさておき、最後のクライマックスが圧巻で、しかしそれはホラー的な圧巻ではない。むしろ、言葉の力の圧巻であって、ホラー小説ではなくてホラー小説といってもいいかも知れない。神話の言葉の力である。直接的な言葉でないところで、逆に神話の持つパワーを感じさせる言語空間を作っている。ギリシア悲劇の合唱団の力は、多分このような感じではなかったのか?

(文春文庫)

工事中

数日前から、工事中です。ちょっといじってみるだけが大騒動です......。しばらくお待ちを......。




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