2007年9月アーカイブ

終決者たち

 御大マイクル・コナリーのボッシュシリーズ最新刊。  このシリーズの共感できる特徴の一つが、刑事である主人公が組織との問題を常に抱え続けていることで、この主人公はシリーズ初期の頃にすでに上司を窓から放り投げたりしている程だ。  一時退職していたのだが、復帰し、御祝儀的に組織と蜜月状態にある。組織に対して問題を起こさないことを誓ったりして、なにやら彼らしくないのであるが、まぁ結局組織のある部分に対しては問題を起こしてしまう。でもそれは、組織の他の部分にとっては都合がいいので、彼は受け入れられた、ということらしい。  そのような複雑怪奇伏魔殿な組織の力学は、政治とも言い、本当のところは関わることを遠慮したい類のものだ。少なくとも私はそうである。  主人公もそうらしく、関わりたくないことを自分が必要としているということに毎回悩んでいる(ような気がする)。  今回はたまたまラッキーなのであるが、よく考えるとやはり組織に利用されているだけであり、それには彼が仕事を続けている理由である信念は関係ない。それでも、自分のその信念、事件の被害者の代弁をするという私的な義務感と情念のために、利用されていることに関わらず問題はないかのように組織の中にいてしまう主人公は、カッコいい、と。  普通は、組織の中にいると組織のことしか目に入らなくなり、自分が何故そこに来たのか、忘れてしまうものなのであるけれどね......。(講談社文庫)

レベッカ

私にとって、ダフネ・デュ・モーリアはただならぬ作家であり、もはや滅多にその未訳の作品が書店に並ぶことはないと分っていても、時に海外文学の書架を探させてしまうほどの吸引力を持っている。しかし、出版業界の意味不明現象のひとつであるが、新潮文庫でこの作者の代表作であるこの作品が、上巻のみ(あるいは下巻のみ、だったかも)店に置かれている状況が長らく続いてきた(似た例として、ベルトラムの『ニーチェ』がある)。  複数巻ものの作品は、基本的にはじめの巻ほどたくさん売れるらしいのだが、しかし名高い『レベッカ』である。私はさすがに半分だけ読む気にはならず、今回初めて通して読んだのだが、やはりこれは作品の途中で止められる読者がそう多いとは思えない、予想通りの一種異様な迫力のあるリーダビリティを備えた作品だった。 普通は私は同じ小説と映画を同時に鑑賞したりはしないのだが、今回は映画を以前に見ていてすでに内容は大体把握していたこともあり、自ら科した禁を破り、途中でヒッチコックの『レベッカ』も観てみた。しかしそれもこの作品を読み進めたい欲望に全く影響を与えなかった。  描き出されている心理描写は、凡百のそれに比べるとシロウトのデッサンと写真程にリアリティに差があるのだ。あるいはそれ以上の差、......例えばデッサン的な修練をしたことのない人でも、写真を下敷きにして薄い紙でその輪郭をなぞれば、その絵?はその画力とは別の説得力を持つだろう。その説得力は、デッサンの上手下手とは次元の異なる力なのである。一種の神懸かり、リアルの持つ力、と言おうか。人間を超えた何かが作者を道具としてこの世に顕現したような趣がある......。70年近く経って、もはや誰もこんなのは書けないのではないか......。 (大方の予想に反して、上手いデッサンは写真のような方向には行かないものである。ダ・ヴィンチにしろミケランジェロにせよ、そのデッサンや絵には画家の個性・世界観がにじみ出てくる。今ここで言っている力は、そのようなものとは異質な力である)  そして危険である(危険さに関しては、ヒッチコックがその映画化にあたってその一番危険な部分を安全化してしまっていることでも分る。)。()




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