魔術師の夜

キャラクターが出色。これは忘れられないかも知れない。一種のアルツハイマー症である老マジシャンが、昔死んだ妻の霊の心霊現象を、手品で自分の周りに起こし続けている。つまり彼の周りでは、灰皿に口紅の付いた吸い殻が現れ、グラスのワインは少しづつ減っていき、状況に合わせてラップ現象が起きる。すべて彼がやっているのだが、失われた女性に対する愛情から、自分の周りに彼女が引き起こしたであろう現象を起こさずにはいられないというのは、誰でも涙落としこそすれ非難するわけにはいかないだろう......。(もちろん、小説であるから裏はあるのだが......) 彼の生き方は、『思い出』とともに暮らすことの完全なメタファーである。 で、私たちは誰でも多かれ少なかれ記憶と共に暮らしているのだが、実は記憶はかなりいい加減である。 美化されたり醜化されたりするし(感情による歪曲)、当初意識しなかった諸々の点が抜け落ちていたり(無意識の脱落)する。つまり現実のコピーであるということなら、記憶ははなはだ心もとない存在なのである。記憶は理念化され、現実の持っている曖昧さや複雑さや猥雑さを失ってしまいがちなのだ。これら雑多なものは、面倒なのであるが、実体であるならば持ち合わせているはずのもので、それを本来持ちえない私たちの記憶像は、非常に寂しいものなのである。だから、私は小さい頃から、思い出には全然満足できなかった。それがどんなに美しいものであっても。(創元推理文庫)

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