2005年10月アーカイブ

聖骸布血盟

例の『ダ・ヴィンチ・コード』以来、雨の後の竹の子族よろしく乱発されるキリスト教秘史モノの一冊。 最近10年のこの手のブームというと、太古の『サイコ・スリラー』モノ、古代の『ハードカヴァーファンタジー』モノ、があり、その後にこの『キリスト秘史』モノが来たと思う。 最近読んだ何かの小説の中に、アメリカで日本の出版社のサイコ・スリラー翻訳出版権を手当たり次第に買いたたく様子を揶揄する描写があり、はぁぁ、という感じだったが、まぁなんでもいいので出版される本の数が増えるのはカルチャー状況的にめでたいことではあるのだ。 なんだかんだ言って、私の人生もそれなりに色々あったことだし、出版界の動向を逐一追っているわけでもない *1 のだが、多分今から25年ぐらい前に『SFブーム』というのがあったのである。当時はSF関係の雑誌だけで4誌ぐらいあったのだぞ、凄いだろ? ところが、このブームの面白い点は、ブームのさなか、そのクライマックスにその内実が失われていったところにある。アイデアやセンス・オブ・ワンダーの枯渇が叫ばれ、もう描くべき未来(ネタ)などない、といった悲観的予測がSF界に充満し、多分メタSFであるフィリップ・K・ディックの作品紹介だけが元気であった。そして宇宙(スペース)を描けないSFは、内なる宇宙(インナー・スペース)に活路を求めた。......これは、求めただけである。結局、インナー・スペースものでは、(少なくとも私の)記憶に残るような作品は現れず、SF界全体が完全に浸水・沈没してしまった後で、内なる宇宙(意識)と電子回路を接続する(WIRED)という方向で、サイバーパンクものが現れたのである。このサイバーパンクとゲームの偶発的パラレル関係なども面白いのだが、風呂敷が拡がりすぎるので今回は触れず、シンプルな私の感想に戻ると、SF業界が一時活路を求めた『インナー・スペース』は、結局のところ、大正解ではなかったのか、と最近感じるのだ。ヤツら、実は案外、鋭かったんではないかい? なぜなら、インナー・スペースもので描かれるべきであった意識の内面は、その病理面が強調されてサイコ・スリラーものに、意志の力(魔法の力)が強調されてファンタジーものに、霊性が強調されて現在の『キリスト教秘史』モノに、それぞれ分解されて現れたような印象を持つからである。SFは(多分)死んだが、その躯はバラバラにされて、時間軸上に埋め込まれたのだ。 なぜか日本の出版界の状況に只ならぬ関心を持つ私は、その死体を集めるイシス(?)のような気持ちになることがある。 現在の流行の地下水流的感想は以上であるが、しかし表面的に見るとこの手の本がキリスト教的な根を持たない日本人にどれほど正確に受け取られているのか、疑問である。しかし、みんながきちんと面白がっているということは、キリスト教的シンボルは、案外日本人の意識下に浸透してしまっているのかも知れない。 しかし、正直に言えば、いままでキリスト教的な文化に親しんでいなかった人にとって、面白いのか、これ? 個人的には、話のある部分で奇跡が起こるのだが、これが現実的部分とのバランスが非常に現実的で、いい感じであった。ヒロインは出来すぎな上にも出来すぎである。こりゃぁ無理だって......。 *1 : 以下の考察は、出版界のブームから見たカルチャー史についてである。文献学的には、ブームに先駆けたり遅れて現れたりした作品はいくらでもあるだろう、多分(ランダムハウス講談社文庫)

獣たちの庭園

どうも世間では『モラル・ファシズム』とでもいうべきムードが強烈に漂っているような気がする。禁煙しかり、ダイエットしかり、各種市民運動しかり。気がつくと身の回りにはいつの間にかプチファシストたちがいて、他人の行動に目を光らせているのである。おぉ、コワ......。 プチファシストの怖いところは、彼らの言っていることはたいがい全く正しいということで、だから当人も私たちも、なかなか彼ら(彼女ら)がファシストであるとは気がつかない。しかし。ヒトラーであっても、当時の発言は、当時の状況下で、正しく、かつ理想主義的なものであったのだ。正義も健康も清潔も、他人に強要すれば、ファシズムなのである。 ファシズム(全体主義)に対抗するのは、個体主義である。個体主義は、書こうとするとなかなか難しいのだが、個人的には、新約聖書のマグダラのマリアの話が、個体主義の本質を端的に示しているように思っている。 マグダラのマリアが、キリストの足を、没薬を使い自分の髪で洗う。それを見た弟子たちが、『もったいないではないか、それを売って貧しい人に施せば良かったのに、云々』と文句をつける。キリストは、弟子たちを叱る。貧しい人たちはいつまでもあなた達といるが、私は今しかいない...... 現代のファシストたち(場合によっては私たち)は、全体への善を振りかざし、目の前の個人個人が持つ真実に難癖を、いやいや『意見』を押し付けてくる。多分昨日の新聞で読んだような *1 。 けれど結局真実であり得るのは、個人にとっての真実であり、それは今日でも、ナチスのファシズムの時代でも同じことであるようである。 ディーヴァーの小説としては、ひねりが少ないのだが、彼の今までの小説が、100点満点中150点ぐらいのひねりを利かせていたのであり、それに比べれば普通ではあるのだが、逆に破綻が少ないとも云え、これはこれで充分にひねってあると言えると思うが......。 *1 : 例えば、シュタイナー教育系の組織では、禁煙が当然のように前提とされている。シュタイナー教育の学校は、ヴァルドルフ学校と言う。これはヴァルドルフタバコ工場のヴァルドルフであり、シュタイナー学校というのはタバコ会社の社長の要請で、タバコ工場の労働者の子供のために初めて作られたものなのだ。この世に喫煙者がいなかったら、シュタイナー学校は存在しなかったかもしれないのである。(文春文庫)

蜘蛛の巣のなかへ

蜘蛛の巣というと、人間関係である。これは自明のメタファー。 本物はひとつの交点に糸が4本だが、実際の人間は糸が何十本とあり、これが難しいのではあるが、しかし煎じ詰めれば太い糸はそれほどの数ではなく、幸運であれば恋愛関係はそのような太い糸の一本(もしくは数本<悪人)になる。 若い人はこの糸を新たに架けようとか、すでにある細い糸を太くしようとか、がんばっちゃったりするわけだが、自分が相手に届いていると思っているこの糸が、実際には相手に架かっていないというのは、これは相当に哀しいのである *1 。 高校生の私は、ある日清水の舞台から飛び込むような気持ちで、あこがれの彼女の下駄箱にラブレターを入れた。多分土曜日の放課後であった。さてさてどんな反応を彼女は返してくれるのか、週明けは大緊張である。......廊下で彼女とすれ違う、すれ違うっ、すれ違うぅぅぅぅぅぅっっっっっ! ......え? であった。彼女はすまして無反応、会釈ぐらいをしているのだった。なんなんだ、この反応は、私は頭が真っ白である。......何度会っても彼女は無反応で、2年ほど過ぎてしまい、いつしか私は(別の彼女ができたということもあり)彼女は恐怖の冷血人間なのだと結論していたのだった。 やがて、彼女の態度は特に冷血というわけではなく、単に私のラブレターが届いていなかっただけだったということが判明した。私の手紙を抜いた(!)犯人も判明した。その後も彼女との間にちょっとしたドラマは有ったのだが、ま、いずれにせよ無念の高校3年間である。......しかしすでに記憶も薄い、ひょっとしたら中学生だったかも、......この話は前も書いたっけ? あると思いこんでいた糸が無かった、これは悲劇であって、今回のクックのダークテーマはここらへんである(あと、父と子の話)。上述したような悲劇の体験を持つアタシなんかには、例によって暗く胸に迫るのだ。 しかし、暗いクックが、明るくなった。幸せは描けないが、ひょうきんに屈折したユーモアなら散見できる(これがなかなか良い)。最後は壮快、やったれ! という感じ。クックだけれど......。 しかしハーレクインな表紙は、これはなんとも......う〜ん......明るい。 *1 : 失恋は失恋で、ちゃんと失恋という糸がかかっていることになる。敵同士には、『敵意』という糸がちゃんとかかっているのだ。とりあえず告白しておけば、応にせよ否にせよ糸はかかる、それが人間関係である。為念(文春文庫)

さよなら?スターウォーズ

仕事が一段落したと信じていた *1 私は、そろそろ上映の終わる『エピソード3』を日劇まで観に行った。先行上映の時は、あまり条件の良くない映画館だったので、いつか行こうと心に決めていたのである。日劇いい音、いい画面、という事。 この時期であるから、多分、信仰心の薄い衆生が来ていたと思われるが、そのような周りの人たち(はじめてSWを観るような不信心者たち)が、なかなか感心・感動していたのが印象に残った。素で観れば、そのような映画なのである。が、諸々の先入観をもってすると、やはり色々なことはあるだろう。そのような状況下で殉教者ルーカス卿はがんばっているわけだ。 そもそもこのシリーズが、神話学の本(『千の顔を持った英雄』だったか)の影響下に構想されたことはよく知られている。ハナからモチーフのオリジナリティなどは意図していないのであって、ルーカス卿の意図は、現代における神話の再生であった(と思われる)。 常に人間は、神話と共にあった、......現代を除いては。 そのように神話的な暗黒時代である現代、どこに神話(聖性)があり得るのか、賭事や悦楽の中にそれを探したのが植島啓司であるが、ルーカス卿は、メディアの中に自らそれを作り出そうとした。そして、現時点でそれはかなりの成功を収めているように思われる(映画の出来ではなく、影響力と云うこと)。もちろん皆、それが作り事であることを知っている。にもかかわらず、モチーフに込められたエネルギーは、かつて神話と共に生きた人々の中で神話がエネルギーを持っているのと同様に、人々の中でエネルギーを持っているのではないか。、どこかの国が人々の宗教のアンケートをとった時、『ジェダイの信者』と応えた人が一番多かったという事実があるが、......もちろん、ジョークとして!、しかしこれはジョークではすまないのかも知れない。 去年あたりから、私の友人たち、......多分我が国でも群を抜く学究たちでもある、......が、一斉にオタク文化の実践的研究に向かい、中にはアイドルの追っかけまではじめてしまった人さえいるのだが、それは、彼らの嗅覚が、そこに一種の聖性を見つけてしまったからではないかと思っている。 *1 : 実はしていなかったのはご愛嬌である......()




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