2005年5月アーカイブ

ニューヨーク大聖堂

最近の小説は大作ブーム・長編ブームも定着し、しかし大作なのはつかの厚さのみで、読後に思い返してみるとそれほど込み入った話でもないような作品が多く、しかし私の方もそれに毒されて背表紙の薄い小説は手に取った時になんとなく物足りなく感じてしまうという少々妙なこのごろであると思う。
小説の『量』というものに、一定の価値が見られるようになってきたのではないか。少なくとも私はそのケが出てきたようだ。
以前、後輩の某女史が某出版社でバイトし、『ウチの**(女性誌)は、**(女性誌)とか**(女性誌)に比べて読むところがいっぱい有るし......』と言うのを聞いて、文章量を自慢している彼女の物言いに、『文章の文字数が多ければ偉いというものでもあるまい、問題は中身だろ』と微笑んでいた私であるが、最近は『これだけの厚みがあれば那須までの電車の中、途中で読み終わってしまい、手持ちぶさたになるということがないだろう』とか、以前の私の感覚からするとどーしよーもないことを考えていたりする。人間はある年齢を越えると堕落するのである。むしろどこまで堕落できるかが勝負だと思っている。
文庫本でつかが4センチ以上あるというものが巷に溢れている中で、上下巻に分かれているとはいえ、どちらも厚みが1.5センチほどであり、『たかがサスペンス・ミステリー』、気楽な気持ちで読み出したが、しかし読み進めていくとプロットが、巷の他の諸作品とは一線を画す密度を持っていることに気が付いた。非常にきっちりと構築されており、内容密度でいうと同種の作品の数倍はありそうである。色々な問題やドラマや性格・人格、恋愛感情等々が通常の扱い方より一歩踏み込んで描き込まれており、善悪の概念も事実に即して、単純に善玉悪玉を分けるものではない。
というわけで、テーマではなくて、小説的密度が圧倒的な作品でした。(講談社文庫)

ディセプション・ポイント

まぁエンターテイメント。
しかし一番関心を持ったのは、後書きで、この人の本が、中高生にウケているのだという。ハリー・ポッターあたりからの流動組が、同じハードカバーで翻訳モノと言うことでか、『ダヴィンチ・コード』あたりをかなり読んでいるのだと。ふむふむ。
そのような話は、目出度い。
つい先、『翻訳モノは売れない』という話にかなり意気消沈したので、うれしい限りだ。だって、読まない→売れない→出版しないという恐怖の悪循環サイクルで、キャロルの新作は翻訳はとっくに終わっているはずなのに一年近く出されないし、パタースンは文庫本で新刊が出るし *1 、どうも勢いのなさが気になるのである。
まぁ一介の書物ファンとしてはですね、他人はどうでもいいのだが、販売実績によって新刊本の傾向と数が決まってしまうので、流行っているのか、何が流行っているのかということは気になってしまうのだ。私自身の選択肢に大きく関わってくるからである。
あらゆるメディアは、言葉に根を持っている(絵ではないのだ。概念=言葉なのである。そのように思える。今は説明は省く)。その意味で小説は由緒正しい、娯楽・悪徳・現実逃避である。根が息絶えないで生きているのを見るのは、心和むものではないか。この方面に力があれば、他のメディアが衰えていく心配は(全体としては)ないのである。
*1 : 彼の作品はハードカバーでないと『なんか違う』のである(角川書店)
新約聖書には、イエスの話が冒頭の4つの福音書にそれぞれ異なる形で記載されている。この話が違うところ *1 が、イエスが実在した証拠であるとしたのはパスカルだが、最近時々話題になる(なってる?)Q資料というのは、このうち比較的古い2つの福音書の共通する部分を抜き出して、この福音書の著者が使った資料はこんな感じである、としたもの。後年、『トマスによる福音書』という現在まで知られていなかった福音書が発見され、そのかなりの部分が、学者達が推定したこのQ資料と共通していたので、信頼性が高まった。
......というのが、私が読み取ったQ資料の成り立ちだが、正確かな? そしてこの本は、Q資料と違うやんけ、あんたらの教義は、と言って教会を微妙に攻撃する。そこらへんがやや神経質な感じなのだが、挙げる種々のデータと推論の仕方は面白い。
CG関係の本というのは本屋の床が抜けてしまうのではないかと思えるくらい膨大な数が出ているが、時々脱力するようなホニャララな記述に出会う。
つまり、一応、10年以上あたしは講師をやって来て、あれこれのテキストなんかも作ったりしたので、私の説明の仕方というのは、思わぬところで拡がっていたりして、どこをどう回ったのか知らないが忽然とCG本の中に姿を現したりするのである *2 。
そんで、かりに2000年の未来、松村CG授業教というのが世界の半分を支配していたとして、その教会の精神が怪しいと、なぜ女性信者はミニスカートなどというものを身につけなければならないのかと、そんな疑問を持った神学者さん達が私が書いたテキスト、そのほかのCG本等々から共通部分を抜き出して、2000年未来からの現代の推測を交え、私の授業を復活させようとしたら、どうなるか。そこから私の本当の考えは読み取れるのか? しないだろう。でも教会が正しいかと言ったら、そうでもないかも知れないだろう。そういうことだと思われるよ。
*1 : 正確に言うと、系譜が違うところ *2 : もちろんあたしにギャラは来ないのだ。(青土社)

PLUTO

GWの中休み(?)というか、突然の平日なのだが、授業したり仕事したりのデフォルト状態が続く。読書メモシリーズも意外性を狙って、マンガを取り上げてみたい。
意外性というか、よく考えてみると数年ぶりに買ったマンガだ。この前に買ったマンガは、田村信の【できんボーイ(完全版)】だったというもの凄さ。
話を戻すと、やはり『地上最大のロボット』は、幼年期の私に印象深かったマンガで、あとご多分に漏れず『デビルマン』と『悪魔くん』、『火の鳥』、『カムイ』あたりで私の性格はかなり決定されたんではないかと思える特殊な作品のひとつだ。
しかしこれらの作品が執筆されてかなりの年月がたっているのだから、再話されるのも別に不思議ではない *1 。
で、PLUTOだが、ある部分がほとんど驚嘆に値する出来である。それは、アトムの性格設定だ。アトム、あのアトムだよ。TVアニメで、破壊行為を許されず眉間にしわを寄せていたあのアトムだ。彼の性格を現代化したら、こうだろうという、さらに逆にこの作品の描写を見て、当時のアトムがこういう性格だったのだと分かるという、非常にもの凄い離れ業をやらかしている。
これはびっくり、客観的な愛と技術がないとできないことだ。
恐れ入りました *2 。
*1 : デビルマンだけは、作者自らが再話しまくっていて、その度に信者である私は混迷を深めていくのだが......、こんどのバイオレンス・ジャックがどうなることか勝手に心配している......再話の再話じゃ...... *2 : ......しかし、やはり本家『アトム』あっての『PLUTO』であり、独立した作品ではないのではあるが、......一般論として私のオリジナリティ信仰は最近揺らいでいるのである。この作品もその信仰に攻撃を仕掛けてくるのだ(小学館)

わが手に雨を

休み癖のある某学校の、休み癖のない補助員に、明日の授業は休みかと訊いたら、あるとのこと。あれまぁ、なんだか例年と違うかも。しかし世間様のGW体制は延々と続き、読書メモも続くのだった。
この作者の私が読み残していた最後の一冊である。
今回は軟派ボディーガード君も姉御姉ちゃんも登場せずに、代わりにロックスター(!)が登場する。
ロックスターだよ、ロックスター。あたしもご多分に漏れず昔はこの職業に対してあれこれ憧れがあったものだが、大体この歳になるとそんなものは無くなってしまう。現実を知るから、というよりはそれに圧倒され押しつぶされてしまうからである。
それが、かつて描いた憧れのイメージに割と近い形で作品中に描き出され、うう、これはしまったなぁ、あたしもマウスを握らずにギターのネックでも握っていれば良かったかなぁ、と思ってしまったりして(爆) *1 。
で、ハードボイルドなので、あんな事件やこんな事件が起きて、最後はラスボス(犯人)と主人公の女性ロッカーが対決したりするんだけれど、これがなんとも痛快な戦い方で、そりゃロックビジネスの本質に沿ったやり方だわなぁ、と、納得と感動しきりでした。
最近のマンガとかでもキャラクター重視とか言って、編集さん達もお話しから浮いた無意味で突飛なキャラクター作りを新人さん達に薦めている空気があるのだが、やはりストーリー=アイデアとキャラ設定は完全に融合していないとあかんですなぁ。
*1 : まぁ、あたしには音痴という音楽家になるには根本的かつ基本的欠陥があるので、やりませんけど、未だに未練たらたらではないわけではなくもない。(文藝春秋)

タフの箱船 1 禍つ星

連休中、多少多めに睡眠時間を取りつつも平常通り仕事していたりするのだが、なにしろ世間様が動いていないので生活が動かない。イコール書くことがないので、読書メモが続く......。
書店で見かけた時は、腰巻きに【『ハイペリオン』の愉悦】などどあったのでスルーしようかと思った。例えばスナック菓子に【松阪牛の味】なんて書いてあれば引くじゃないか *1 。短編連作集でハイペリオンを持ち出すとはいい度胸である。
ま、道中暇なので読んでみたのだが、期待していなかったわりに面白かった。
つまり、SFなのである。古の、だ。たしかハイペリオンの時もそのような感想を持ったのだが、SF書店人がいくら詭弁を弄しても、ジャンルとしてのSFは失墜した。今ではなんとなく哲学的な枯山水の世界である。枯山水は、〜私は全然否定しないが〜やはり老年のものであって、生命に溢れた成長期のものではない。
ハイペリオンは、古のテーマをリミックスしまくることで新たな生命感を得たと思われる。比して、この作品集の場合は、全くの正攻法で仕掛けてくる。かつてのSFの不可視の領域内から一歩も出ないで、それでも面白い話というのをやろうとしているようだ。それは成功している。多勢を変える一石にはならないと思うが、私のような古参のSFファン *2 は喜ぶだろう。
ところで、マーティン君(つーか創元社君)、ワイルド・カードはどうなったのかね? *1 : もっともそのキッチュさを面白がり触手を伸ばす人間はいるかも知れない。いぜれにせよ本当にその味がするとは誰も期待していない *2 : SFマガジンが【ゲーム特集】なんかをやり出した時に購読を止めたクチ。なんだったんだ、アレは? (ハヤカワSF文庫)

魔法

解説によると、『SF、ミステリー、サイコ・ホラー、ダークファンタジィ、そしてポルノグラフィ』だそうだが、御説ごもっとも。さらにオカルトものの要素を入れてもよさそう。
さぞかし変な小説かと思うだろうが、そうでもなくて、もちろん有りえなそうな話ではあるのだが、むしろ非常に現実臭いのだ。
つまり、引用して上に挙げた様々の要素というのは、実際に私たちの生活の中の一要素であって、生活というのはそれぞれにこれらの色々を大なり小なり実際に含んでいるのだから。
......誰の生活でも、である。時に自分は普通の生活をしていると力説してやまない人に出会うのだが、それでも誰でも例外なく小さい頃に『不思議な体験』をしていたり、死者の語りかけを聴いていたりする。念が奇跡的な偶然を引き起こしたり、身辺でささいな奇妙な事件が起こることもある。誰の生活でも実際のところは魔法に満ちており、自分は普通で何事も起こらないと言い張る人物は、そのような心理的な壁を崩れないように必死に支えているだけなのではないか。
そのような壁が崩れたら、実際にあり得る世界の小説。作品中の小さなエピソードの一つ一つに、デジャビューを感じる人は、かなり魔法世界の住人であると思われる。
この小説は、道具立てはなかなかのものだが、基盤にある心理的体験を置いており、そのせいか実にリアルなドラマを感じさせてくれる。三角関係の心理ドラマをこのように手に取るように書いた例を私は知らない *1 。
その方向から〜ちなみにこれは男2女1の三角関係小説なのだが〜、やや突飛かも知れないが映画の『ポゼッション』を思い出した。なんとなくそこらへんのテイストが似ているのだ。イザベル・アジャーニの怪演が凄すぎ。こちらの場合、怖い女心を覗きたい方はご覧あれ。
『ポゼッション』 ASIN: B00005G0LD *1 : もっとも、あまり恋愛小説には明るくないのだが(ハヤカワ文庫FT)

タフの方舟 2 天の果実

前編で『ありえない』帯の文句に苦言を呈した本だが、今回はその点を訳者が後書きで言い訳していた。うむむ......。
軽妙と深刻の組み合わせというこのシリーズの持ち味(らしい)は、この後編にいたってやっと明らかになる(ついでに主人公の性格も)。前巻のプロローグなんかは、私には他の部分とのテイストが噛み合わずの感が強いので、蛇足だったような気がする。
かつてSFは、思索と結びついていた。若者の青々とした思考回路は、ぐちゃぐちゃした現実を素材に考えることはできず、(とはいえ、この点は歳をとった人も似たり寄ったりで、多くの人が現実を『ゼニ』というセコい一点だけから観た世界観を構築しているだけであったりするので、年寄りが偉いというわけではない、むしろ哀しくもバッチイ感じが強い。為念)、思惟は、自分のものであり絵空事であるSFの素材を借りて、その中で発展していき、作者の方はそんなことは考えていなくても、自らの思索の跡をエンターテインメント作品の中に残すことで、SFというのは文字通りの意味で『文化』になっていたように思う。昔のSF少年は、大まじめにロボットが人間に恋することが許されるのかとか、敵の惑星を全滅させる超兵器のボタンを押してしまって良いのか悪いのかとか、永遠の生命を持ったらどうなるのかとか、逆に私たちが3日とかの非常に限定された命だったらどうするかとか、考え込んでいたのである。
これらはバカげた思考実験のようだが、後に現実に即した思考を作る時にそのまま通用する思考力を発展させるのだった。本当に問題なのは、思考内容ではなく、思考する力なのである。訓練という観点では、内容はなんでもかまわない筈なのだ。新しい教科書を作ろうとする人や、社会に向けて何か言おうとする人は、常に些末な内容を問題にし、どのような力がその内容を担うのか考えようとしない。言われたことを鵜呑みにする思考力のない頭を前提とし、必要としているように思える。
このようなわけで、オイルショック下のシケた時代、父親母親爺ちゃん婆ちゃんのカーボンコピーにならないためには、SFやマンガやアニメが大いなる助けになったのである。親の価値観ではない価値観が、どこからか若い世代の意識に挿入される必要があったのだ。
SFの衰退とともに、これらの『思考道場』も衰退し、SF無き最近の若い人は父親母親の生活苦思想の影響をモロに受け、爺臭く『カネカネカネ』とばかり考えている気配があるのだが、これは明らかに文化の衰退、それどころか場合によっては人間の衰退と考えられる。こんな状況の中で微妙に期待できるのは、いわゆるファンタジーシリーズファンと、若『オタク』の人たちだろうか。
もちろん彼らの思考テンプレートは、私たちオジ組が使ったテンプレート同様に、多分呆れた内容なのではと思われるが、しかしそれでも彼らは人間の意識を進化させていく可能性はあるのである。同じことの繰り返しは進化・進歩ではないのであるから......。
ところで、タフが遺伝子操作で復活させた地球の魔獣のなかに、しれっとゴジラが混じっていたのにウケてしまいました......。(ハヤカワSF文庫)




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